「迷惑ってなんだ? 叫ぶ人、走り回る人が不在の未成熟な文化で調子に乗ってんじゃねえよΣ( ̄。 ̄ノ)ノ」

(2013.7.10配信)

 

パーソナリティー:茂野俊哉、中村和利

エンジニア:庭野拓人

CafeLegatoにて収録

 

 

今回は中村和利のTwitter上のツイートから始まりました。

表題の通り「迷惑ってなんだろうか?」

様々な場面でその「迷惑」と状況になることがある。

その迷惑とは?を中村和利と茂野俊哉が話す。

両者の意見がまとまらず一時収録中断…!??という場面も。

 

音声はこちらから(準備中)

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迷惑ってなんだろうか?

 

 

 

先日、これに関連するTweetをしてみました。

 

僕の周りには、大声を出す事、動き回る事を場面に応じてセルフコントロールする事が難しい人がいる。

 

 

電車、教室、映画などの場面で叫ぶ、走る。

彼らがいない前提の中で、迷惑と位置づけられてきた。

 

 

でも彼らはいる、そして排除してはならない。

迷惑とせず、共存する事が新しいマナーだ。

 

 

このツイートには批判的な感想もいくつかありました。

 

批判まず「講演会や映画など大きな声をだされると、静かに聞きたい、鑑賞したいって権利が侵される」次に「障害者であっても訓練教育がされていれば静かにすべき場面で静かにできるはずだ」って2つの視点からありました。

 

これに対して僕の意見には賛同するが「騒いで良い場面と、騒いではならない場面が選択出来ればいいのでは?」って提案もありました。

 

 

外出支援で騒いだり走り回ったりする人たちと外出していると、まあ良くある場面です。

 

勿論、僕らは彼らが街の中で調和して、楽しく過ごせることを考えているので、回避できる場面は回避します。

 

でも本人が「映画が観たい」って希望するなら一緒に映画を観にいくし、電車・バス等の公共交通機関は当然のように使います。

 

自閉症の少年と電車に乗った時に、彼はなにか納得のいかないことがあり、大きな声を出すというアピールをしました。かなりの絶叫を繰り返していたので駅員が途中から乗車してきて下車してほしいと僕に伝えてきたことがあります。

 

やはり自閉症の青年と郊外に電車で出かけた時に、彼は楽しいと大きな声を出してしまうのですが、電車内で大きいな声を出してウロウロしていました。その時は乗客のひとりが「静かにできないなら電車に乗せるべきではない」って僕に伝えてきました。

 

そんなコトを思い出して次のツイートをしてみました

 

外出支援の時に電車の中で知的障害の当事者が大きな声をだしていると、嫌な顔をしてガイヘルの僕に『なんとかしろよ』的なアイコンを送ってきたり、言ってくる人がたまにいる。

何故か本人には直接言わない。

 

うるさいと思うなら、本人に『静かにして欲しい』と自分で伝えないとだろって思う。

 

知的障害・自閉症を持つために行動を場面にあわせてセルフコントロールすることが困難な彼らの行動は、今現在の社会の中では「迷惑」と捉えてしまう人が沢山います。

 

 

しかし、迷惑と捉えている人たちは、直接彼らと接点をもち「迷惑」と思う自分の気持ちを伝えようとはしません。

 

先のツイートでの反応の中に「静かにさせるコトもガイヘルの役割のひとつだから、ガイヘルがそう言われて当然だ」ってものもありました。

 

 

さてかなり散漫な話になっているので整理します。

今ボクが考えていることは

 

◯場面に合わせた行動をとることが出来ない障害者は存在している

◯彼らは意図的に社会から分断されてきていて、社会は彼らが「いない」ってコトを前提に文化を作ってきている。

◯「彼らがいない」ってコトを前提にした文化の中で生活してきている人々にとって彼らは迷惑な存在

◯訓練教育によるセルフコントロールの獲得は人間が社会的な生き物である中で有効だとは思うが、「あらゆる障害者に有効な訓練教育はない」「抑圧的な訓練教育は二次障害をよびおこす」「そもそも、適切な時期に適切な訓練教育を受けられる体制がない」

 

 

ってコトを前提に、これから社会はその文化の在り方を変えていかなくてはいけないと思っています。

 

これは一方的に社会が彼らを受け入れなくてはならないって話ではなく、大声をだし、走り回る人たちとそれを「迷惑」ってしか捉えられない人たちが合流していく為になにが必要かを考えて調整していく事が必要なって来ているのだと感じています。

最後にもう一つのツイートを紹介して僕からの発言は一旦終了します。

 

 

 

なぜ、想像しないんだろうか?

 

重度知的障害や自閉症がある為に

 

社会から分断されて生きてきている彼らが、

個別でのケアを手にいれて社会に合流していく眺めを。

 

彼らがいない事を前提に積み重ねられてきた文化の在り方を

議論して新しい積み重ねをする状況を。

 

社会が正常化していく眺めを。